日当たりのいいところへ
真夜中の午前2時、2歳の娘が「牛乳のみたい」と目を覚まして大泣きをしはじめた。私は、「喉が渇いたのだろう」と思い、「のどがかわいたなら、夜はお水ね」と声をかける。もちろん「いやだいやだ」だ。そもそも夜中は、虫歯にならないように牛乳を飲ませていない。毎晩の習慣になっても困るので、ここは折れない様にしようと思う。娘は決して諦めずに泣き続ける。
違ったものを持ってきたら、ひっくり返すということを何度かされている経験もあり、くるりと背を向けて相手にしないことにした。もっともっと、強く泣きじゃくる娘。背中をどすどす蹴ってくる。
しばらくして、夫が起きて、「そらちゃん、牛乳ないよ。ポカリスエットのむ?」と声をかける。「いやだー!」と泣き続けるが、夫はキッチンへ行くと、ポカリスエットをコップについで、なかば無理やり口に含ませた。(ちなみに、この日は本当に夫が最後の牛乳を飲み終えていたようだった)
すると、娘はごくごくとあっという間に一杯飲み干し、「はー、おちついたね。よかったね。」という言葉と一緒に、ほっと落ち着いた。
これまで、わたしはこういうことがあると胸がずんと重くなった。「いいパパだなあ。ありがとう。」でにっこり素直に済めば良いのに、「娘の気持ちを叶えられず無視しようとしたわたしは、存在価値がない」と自動的に解釈してしまうのだ。
「子どもの求めているものの本質を解釈し、機転(ユーモア)を効かせて代替案を提示してあげる。ワガママをさらっと受け流す。」お義母さんも、こういうことが上手な人なので、夫は自然にできるのだなあと思う。わたしは、大体お母さんから、その場の負の感情をストレートにぶつけられてきて、いつも悲しそうなお母さんの心労を察し、自分の本音を言わずに育つ大人になったので、夫やお義母さんの様に、軽やかなやり方が分からない。
毎日、上手くできないことを、拗ねずに、身近にいる上手な人をお手本にして真似したり、できないから教えてくださいって言うことができたなら。
それは、「今のありのままの存在を肯定しているから」初めてできることなんだろう。「こんなことも自分で解決できないなんて、自分は存在価値がないんだ」と日頃思っていたら、人に訊くことなんてできない。
中学に入るぐらいまでは、人と比べてがっかりするということはなく、いいと思うことをどんどん真似していた気がする。鉄棒の上手な子を真似してみる。絵の上手い友達を真似して描いてみる。頭のいい子のノートの書き方を真似してみる。おしゃれな友達と同じお店で服がほしいとお願いしてみる。12歳頃まではまだ、「自分のありのままの存在を肯定していた」んだろう。きっとだからこそ、友だちの「得意」に対しても、いつも「すっごーい!」とキラキラ感動していた。
子どもとおとなの違いで言えば。わくわくする、楽しそうな自分で過ごすことを、親に頼むのではなく、自分で叶えていくことなんだろうか。
子育てのことが分からないなら、子どもと遊ぶのが得意な人に訊いてみる。お金のことが分からないなら、心身ともに豊かなお金持ちの人に訊いてみる。商売のことが分からないなら、得意な人に訊いてみる。そんな自然なこと、わたしはずっと、できなかった。というかいつの間にか、できなくなっていた。大人だから、それを教えるのを商売にしている人が沢山いると知っている。赤ちゃんの、母乳育児、抱っこの仕方すら有償の講座になる世の中だ。
おっぱいのあげ方、抱っこの仕方を近所の優しいおばあちゃんに訊いて、お金を請求されるだろうか。となり近所の素敵な人を見つけて、尋ねるのが、人の自然な姿なのではないか。お金を介さなくても、笑顔でありがとうと伝えることができる関係は、SNSの外にある。
ずっと、「普通に、わたしはまともな成熟した大人だ」って思いたかった。でも、日当たりの良くない、水捌けの良くないところに産まれ育った自分を自覚したら、日当たりのいいところを知っている人に、教えてもらえば良いんだ。また、心という土壌への水やりや栄養補給が上手な人に教えてもらえば良いんだ。それは、今となり近所にいる笑顔で幸せそうな人。ご機嫌な人。わたし、何も拗ねないで良いのだよ。